中途障害者になるというコト

「中途障害者」というのは、
読んで字の通り、先天性の病気などのように生まれた時から「障害」のあった身体・機能ではなく、
ある日突然、もしくは徐々に、病気や事故などによって「障害」と呼ばれるものを持つようになった人たちのコトです。
「高齢と呼ばれる歳になったら、誰かのお世話になるんだろうな・・・」
という考え方は、古くから多くの人が考えていて、若いうちはそんなコトはないと思っていないだろうか?
「高齢になれば、身体が老いて不自由になる。だから、仕方がない。」
「けれども、若いうちに老いるコトはない。だから、他人の世話になんかなるコトはない。なってたまるか」
と、いうのが、個人主義の風潮が強くなり、他人の干渉を嫌う。そんな最近の世の人々の持っている考え方でしょう。
もし、そういう考え方の人がまだ若いうちに甘受しなければならない身体になったとしたら!?
甘受。。。
読んで字の如く、その状況下を受け入れるコト、そのコトを甘んじて受け入れなければいけない。
その状況を「仕方がない」と、あっさり、いとも簡単に受け入れられる人間は少数派でしょう。
それまで生きてくる中で、そうなるコトが予知でき、それを当然なのだと開き直ってでもいない限り。
人はプライドというものを程度の差こそあれ持っている。
生きて、生活を普通に送っていれば、意地もあるだろうし、その人の価値観やポリシーもあるでしょう。
ある日突然、それを全面否定される状態。それが人生半ばで障害者になった者が最初にであうものでしょう。
現在の高度医療の発展は目覚しく、事故や病気に遭ったとしても「死ぬ」確率は減りました。
ですが、一命を取り止めたからといって、後遺症という名の障害が残ることは珍しくはないです。
逆に、誰かに依存し過ぎてしまうのも良いとは言い切れませんが、
最低限のコトを手伝ってもらうのは、その人が生活していく上で必要なことであり、
憲法でも生存権には触れているので、気に病むのはどうでしょうか。
また、周囲で見かけた人が気軽に「なにか手伝いましょうか?」と声をかけられる
ほんの些細な心遣い、それが出来る人が多くなれば、彼らの心の負荷はすこしは軽くなるのではないでしょうか。。
全然いないわけじゃないんですけどね。世の中、なかなか捨てたもんじゃない、と感じるには時間がいりますけどね。
不心得者もいますからね。。



その障害の一つがキメイ力に関してだったりしたら

まず主治医なりに自分の後遺症について宣告されるが、
それを受け入れるかの葛藤に入る前に、まずそのコトを自己認識するのに時間を要します。
受傷前の過去の記憶は残っていますから、その状態が続いてるような感覚があったり、
妙に過去に固執してる状態が長かったりします。。。
また、、、
新しいコトをなかなか覚えられなく、すぐに忘れると言っても、
強烈な言葉は、言葉として記憶されていなくても、概念として残っていたりします。
また、キメイ力がなくても、受傷前の記憶が鮮明に残ってることもあります。
過去の記憶が残ってるというコトは、それまでに培われたプライドなども残ってるというコトです。
「突然キレたように・・・」とか「訳もわからずに急に暴れて・・・」とか思う前に
不用意な発言をしなかったか考えてみません?
人間、言われたくない言葉というものは多かれ少なかれあるものです。
でも、障害を持ったその人に対して、見下すような言葉や口調で発言してませんか??
気の使い過ぎもお互いのために良くありませんが、その暴力を恐れて言葉を飲み込み過ぎるのも良くありません。
けれども、そのパターンを覚えていられる側が、その言葉を飲み込むのは必要かもしれません。
そんなに多いものではないのですから。

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